中学一年生で起きた3つの出会い
私が人は同じ「世界」を見ているようで、違う「世界」を見ている、そう実感する出会いが立て続けに起きたのが中学一年生だった。この出会いにより、自分以外が見ている「世界」はどんな風に彩られているのかを知りたいと強く思うようになった。
きっと、この出会いが無かったら私は心理の世界の深淵を覗こうとは思わなかったに違いない。
だからこそ、最初のAnother Storyは、この3つの出会いについて語ろうと思う。
空を飛んでいる風船は何色なのか?
中学校一年生の昼休みに屋上で友達と話していると、友達が言った。「風船が飛んでる!」
私が空を見上げても風船なんて見当たらない。
「どこ?」
私が問うと、友達は指を空に指して一生懸命説明してくれる。
だけど、私には見つけられない。
その友達は眼鏡を掛けていたので、子供の浅知恵で、眼鏡を掛けたら見えるかも知れないと思って眼鏡を借りてみた。
そうすると、透き通るような青い空と、薄く散った白い雲の間に「赤い風船」が飛んでいた。
この時、私が衝撃を受けたのは、自分の視力が落ちていることではなかった。
私と友達が「同じ世界」に存在し、立つ場所も1mも離れていないにも関わらず、「違う世界」を見ていたことだった。
日常にいながら、まるでSF映画を見ているようなそんな不思議であり、当たり前のことをと思われるかもしれないが、この時初めて、自分と他人は違うのだと明確に意識した。
「世界」は1つしか見えない
どうやら視力が落ちているらしいということに気づいた私は、親に眼鏡屋さんに連れていかれた。私の子供のころの中学一年生と言えば、眼鏡を掛けているというだけでからかいの対象となるので嫌で仕方なかったが、何せ中学一年生だ、悲しいかな、眼鏡があった方が良いのをわかっていて親の言うことに反抗できるほど弁は立たない。親の機嫌を損ねて晩御飯のおかずが野菜多めになるのも嫌だし…子供なりの処世術である。
眼鏡と言えば、中学校の図工の授業は週に一度程度だった。入学したばかりで、週に一度の授業だ、教師も生徒の名前を全員覚えているわけはない…しかし、しかしだ、眼鏡を掛けていることでからかわれるのが嫌な私は、授業中だけこっそり、なるべく知られるクラスメート(まだ友達と言う距離感では無い)を少なくするために眼鏡を掛けていた…のだが、こともあろうに、この図工の教師、こともあろうに、私に向かって「そこの眼鏡」と呼びやがった…思い出すと噴飯冷めやらぬことを考えると相当恨んでいるらしい。
これからしばらく「眼鏡」とか「のび太」とかからかわれたのは言うまでもない。
固有名詞を呼ばず、こういう人の身体的特徴で呼ぶような意識の低い教師は正直「ピー(規制音)ばいいのに」と今でも割と本気で思っている(まあ、時代だと言えば時代なのだが…)。
すっごい、話がそれた。
この段階でAnother Storyの方が、キャリア系の記事よりも長くなりそうな予感がしてきたが、結局は書くのだから気にしたら負けである。
話を戻すと、私は親に連れられて眼鏡屋さんで視力を測定した。
その結果、意外な事実が判明する。
「物がダブって見えておかしいと思いませんでしたか?」
店員の一言に、また驚愕である。
当然、自分が乱視であることに驚いたのではない。
私は生まれてこの方、物がダブらないで見える「世界」を経験したことが無い。
私にとっては「世界」はいつもぼやけていて、不明瞭で、輪郭がはっきりしないものだった。
この時、「「普通」とか「当たり前」って、人によって違う」と言うことを知った。
「普通」は「普通じゃない」
このことに中学一年生で気づけたのは行幸だった。
コップの中の水
英語の授業の時に、教師が「コップの中に水が半分入っています、この時に英語で”little”と表現するか“a little”と表現するか」とクラスに質問した。文法的には「ほとんどない」と「ない」を意味しているのと「少しだけある」と「ある」を意味している違いらしい…
らしいと書くのは、私は中学一年生最初の中間試験で9点を取って以来、英語が大の苦手だからだ。
これも後でGoole先生に聞いた結果なので、本当に正しい解釈なのかはまったく自信が無い。
ちなみに、数年前に実家に帰省した時に、親に「収納の整理をしたいから、昔のいらない物は捨てる」と言われて、実家に帰ってまで片付けかよ~と思いながらしぶしぶ整理していると、件の英語の中間テストの答案が出てきた。
この答案に、正直人生で一番驚いた。
9点だと思っていた点数は…
なんと…
7点だった!!
30年間ぐらい25%も水増しして話していた…話の落ちとしては使い易いが、勉強しないことに滅多に怒らない母が、泣きながら勉強の大切さを話していた気持ちが今ならわかる…
この場を借りて詫びます。
母よ、ごめん、マジですまなかった。
再度話を戻すが、この英語の授業の時に、当然のように「文法」に感動したりはしない。
この、同じ物を見ているにも関わらず、「受け止め方」の違いから、「表現」が変わるということ。
まさに「認知の違い」について感動したのを覚えている。
ちなみに、私の人生の中で、英語の授業が明確に役に立っていると言い切れるのはこのエピソードのみである。
心理学の古典とペットボトル
以前の記事に、心理学の古典には「1本薔薇と2人の人間がいると、そこには3本の薔薇がある。1本は「事実の薔薇」、残り2本は薔薇を見た人間の「真実の薔薇」である」という言葉があると書いた。ブラック企業と口にする自分こそが「ブラック社員」になっていないか
これは、私が25歳の頃に知った話で、知った時は「まったくその通りだ」と一人感心したのを覚えている。
私も自分が心理に関わる話をするときは似たような話をする。
ペットボトルに「水分」を半分入れて、これを自分ならどう表現するかのグループワークを行うのだが、何かしらオリジナリティを出したいのか、参加者の皆からは「半分入っている」「半分しか入っていない」などという模範解答のような表現はなかなか出てこない。
しかし、それがいい。
オリジナリティ溢れる回答を考えた結果、人と違う表現になるということ自体が、自分と人は、違う「世界」を持ち、違う「認知」をしているということなのだから。
それは、その人にとっての「真実」であり、その人の「世界」には、その様に存在しているのだから否定する要素は何一つない。
自分の「真実」が「事実」ではないという前提があるからこそ、相手の「真実」を聞く姿勢が生まれる。
「私の「真実」はこうですが、あなたの「真実」はどうですか?」
コミュニケーションとは、斯くあるべきだと私は思う。
ただ、自分や相手の「真実」が「事実」と同一であるとは限らないことは忘れてはならない。
意地悪な私は、時々「水分」に無色透明な日本酒や気の抜けたサイダーを入れているのだから…
こんなことを考えながら記事を書いていると、あの日学校の屋上で見た、透き通るような青い空と、薄く散った白い雲の間に飛んでいたのは「赤い風船」ではなく、実は「隠ぺい機関の壊れたUFOが一時的に姿を現していたのかも」などと頭に浮かび僅かに口角が上がってしまう。