序文
今回の記事はとても長いモノになる。だけど、キャリアカウンセラーや公認心理士を目指す、あるいは資格を取得して比較的浅い支援者の方には最後まで読んでもらいたいと思っている。
なお、この記事には私の邂逅が含まれているので、クライアント以外の人の想いなど読みたくない支援者の方は、このまま画面を閉じることをお勧めする。
とはいえ、本当に長くなると思うので、結論だけ先に書いておく。
「理論を学ばなければ支援ができない時点で、支援者としては致命的な欠陥を持っている」
「支援は自分のためにするものではない」
当たり前の様で、なかなか理解されない2つがこの記事の結論だ。
邂逅(運命を変えた本当の支援者との出会い)
この出会いを語る前に、私が何故キャリアカウンセラーを目指したかを書いておく。理由はありきたりで、支援者を目指す多くの方と変わらないだろう。
濁して書くが、仕事で色々とあり、「仕事で自分と同じような思いをする人を無くしたい」という本当にありきたりで、この道に進む切っ掛けとしては何の変哲もないものが理由だ。
支援者の道を歩む動機としては、「国家資格になったから取得する」とか、「お金になりそうだから」という動機よりは随分と健全ではあるが、「無くしたい」は自分の願望や願いでしかないということに当時は気づけていなかった。
これは、まさに「支援は自分のためにするものではない」に該当することであり、この件については、下記記事を参照して欲しい。
キャリアカウンセラー(キャリアコンサルタント)の在り方
そんな動機を持つ私だが当時はとても知識を入れるのに熱心だったと思う。
週末は常に勉強会に参加し、平日も夕方から夜に開催される勉強会にはなるべく進んで参加していた。
そして、その熱心さが認められたのか先輩カウンセラーから仕事を紹介していただき、晴れて念願の支援者への道を踏み出した。
そこで出会ったのが、現在当サイトに登録してくれている高西カウンセラーだった。
彼女は、当時は資格を有しておらず、経験だけで支援を行っていた。
理論を学んだ私からすると滅茶苦茶に見えるやり方だが、不思議なことに相談者に信頼され、悩みの本質を捉えて、「相談者自らがその本質に気づいていく姿」は、知識と理論で武装した私には理解しがたい光景だった。
新卒の時から、離職者やメンタル不全者が多いと話に上るIT業界に勤め、この状況を何とかしたいと思い続けた結果、不退転の覚悟で職を辞し、学び資格を取得した私には、その学んできたこととはかけ離れた方法(話し方や雰囲気)で、相談者の悩みの深奥に到達する彼女は、今まで学んで、少なくともこの道を歩んでいくと思える程度の自負を粉々に砕くものだった。
当時は、恥ずかしい話(一方的に)ライバル心を燃やし、彼女と相談方法についてよく揉めていた。
「どうして、このプロセスを踏まないのか」「理論の理解が出来ていない」など、ことあるごとに突っかかり、迷惑な奴だったと思う。
それもこれも、自分自身のプライドを守るためであり、敗北感を認めないためであり、相談者のために必要な討論ではなく、一方的な確執の発露でしかなかった。
私のような支援者は、「ラポールの形成」とか「受容」とか「メラビアンの法則」とか「ミラーリング」「ページング」など、さも知った様に、理解しているかのように単語を使う。
そうやって、知識で理論武装し、相談者に向き合わなければ、信頼関係を構築することも、相談者の心の扉を開けることも、相談者自身が分かっていない心の深奥にたどり着くことができないからだ。
それを彼女は、何も無くして、相談者と相対してものの5分で心の扉を開かせてしまうのだ。
彼女が「占い師みたい」「親も知らない隠していた気持ちがどうしてわかるのか」と言われるのも理解できる。
私たちが時間を掛け、細心の注意を払い、技法と理論を重ねてもたどり着けるかどうか不明な深奥に彼女は、あっという間にたどり着くのだから。
カウンセラーの定義は様々あると思うが、私は「心」「想い」「思い」「感情」「気持ち」などの動きがなぜ起きているのか、それを相談者自らが見つけ出す手伝いをする役目だと思っている。
決して、気持ちに寄り添うことや、答えを教えること、はたまた理論を諳んじたり、アセスメントが使えることがカウンセラーとしての本質ではないと考えている。
そうは分かっていても心から認めるまでに、2年という歳月が掛かり、「私は偽物のカウンセラーである」と認めるに至った。
冒頭に書いた結論「理論を学ばなければ支援ができない時点で、支援者としては致命的な欠陥を持っている」は、これから学ぼうとする方や、実際に支援をしている方にはショッキングな言葉だと思う。
「私や佐藤君は、人の気持ちが分からないから、理論を勉強しているのよ」
これは、私と彼女が尊敬する大先輩のカウンセラーの言葉だ。
その通りである。
「理論が言える」とか「アセスメントが使える」とか、プロフェッショナルとして恥ずかしいことだと気付いている支援者はどれくらいいるのだろうか?
理論やアセスメントを知ることは大切であり、それを疑う余地はない。
しかし、理論というのは、聡明で偉大な先輩が自分の知識や経験を分かり易く体系化したものに過ぎず、アセスメントに至っては、知識の及ばない未熟者であってもカウンセリングの真似事ができるように普及しているものでしかない。
勿論、可視化することにより相談者が安心したり納得したりする効果もあり、そのために使用しる支援者もいることは確かだ。
半面、「この理論ではこうだから相談者の状態はこう」という思考や「アセスメントがなければ相談者の課題を紐解けない」ようでは、支援者として実力が伴っていると言えるのだろうか。
アセスメントを使えるのも能力の一部ではあるが、アセスメントの助けが無ければ相談者の深奥にたどり着けないのであれば、補助輪が無ければ自転車に乗れない状態と変わりがあるようには思えない。
話は変わり、更に過去に遡るが、私の小学校からの友人にいわゆる天才肌の友人がいる。
彼は、高校の時の数学の試験で、全問正解したのも関わらず教員室に呼び出され、「カンニングしている」と教師に詰問された。
何故なら、全問正解だが、そこに至る方程式が全くでたらめで、教師は答えだけを写したと考えたらしい。
実際は、「問題を見ると答えが分かるが、どうしてそうなるのかは分からない」ため、答えの値が出るように、なんとか無理やり計算式を書いたという、なんとも驚きの事実だった。
カウンセリングも同じではないだろうか。
世の中は、方程式を覚えて能力に変える人の方が圧倒的に多い。
それが悪い訳では無い。
しかし、プロフェッショナルを名乗るのであれば、「理論を知っている」「アセスメントが使える」からプロフェッショナルであるのではなく、自分自身が支援を行うためには「理論やアセスメントの手助けが無ければ、相談者の深奥にたどり着くことができないという欠陥を持っている」という事実を認識する必要があるのではないだろうか。
そして、それを認識できるからこそ支援者として、更なる向上に繋がるのだと考えている。
追伸
私自身のことになるが、文中で「私は偽物のカウンセラーである」と書いたが、「偽物の支援者」ではないと思っている。私は、理論やプロセスなどを理解し伝えるのが得意であり、相談者への講義やセミナーなどで情報を伝えたり、支援者になりたい方に理論を伝えたりすることに関しては十全の能力を発揮できると思っている。
それは、支援者としての領域の違いだけであり、それ認め受け入れることができた時に、世の中のカウンセラーと言う定義や認識からすると、私は決してステレオタイプで語られるカウンセラーではないと、とても晴れ晴れと人生と職業選択の舵を切れたと感じている。